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【独シュピーゲル紙】日本メディアの震災報道評‏

各位へ:私のメディア批判をもっと深く切り込んだものが、シュピーゲルに載ったようですので、<地震医療>記事から転送します。


おはようございます。
東大総合文化M1の森脇@上研究室です。

東大教養国際関係論B4の古川さんが独・シュピーゲル紙の記事で日本メディアの震災報道評が書かれたものを翻訳してくださいましたので転送いたします。


(要点)
・日本の権力機構の密接な関係(原発産業・学者・メディア)

・公式のデータを疑わざるを得ないという事態 →これまでの日本にはなかったこと

・日本のジャーナリストは「記録者」に成り下がっている →権力機構に対して従順

・日本人は、原発に対してアクションを起こしていない→ドイツにおける原発反対デモとの対比  →メディアは社会を映し出す鏡

・「パニックを起こさないような」報道

元記事:http://www.spiegel.de/spiegel/0,1518,754933,00.html

(全訳)
日本のジャーナリストは福島原発事故によって挫折を味わうことになるにだろう。鋭い批判や、情け容赦ない独自調査、もしくはスキャンダルの暴露などといったことは、どちらかといえば相応しくないだけでなく、タブー視されてすらいる。その理由の一つとして、編集部が権力機構の一部であることがあげられる。


福島原発事故が発生してから18日目の出来事について記事が書かれている中、西村陽一氏は朝日新聞の巨大な編集室を見渡している。朝日新聞は日本で2番目に大きな新聞社であり、一日あたり800万部にのぼる発行部数はドイツのビルト誌のほぼ3倍である。西村氏はそんな場所で毎日働いている。それにも関わらず、彼は権力的には映らない。彼はただ疲れて、失望しており、彼の周りで起こっている出来事に混乱しているのである。


事故を起こした原子炉を運営している東京電力では、「想像を絶する混乱」が起きているという。西村氏は、それを激昂したり攻撃的に言ったりするのではなく、むしろ、まるで数学の先生が計算間違いをした時の優等生のように恥ずかしく思っているようである。東京電力の経営陣などと同じく、彼ももまた、十分に日本におけるエリートであるといえる。彼は、日本のエリート官僚や東京電力の経営陣の多くと同じように、東京大学を卒業しているのである。


西村氏は、原子力に関して知見をもっていることを頻繁に好んで強調する。彼はかつてモスクワ支局で働いており、当時、チェルノブイリにおける原発事故の経過を取材していたというのだ。その後、ワシントンへと赴任した彼は、劇的な出世をすることになった。彼は編集長レベルに昇進したのだ。彼は、自信を喪失したり、自社の記事に対して疑念を抱いたりはしない。ただ、福島における混乱は、彼を途方にくれさせる。


東京電力は会見の中で、原子力発電所の間違った測定値が発表されていたことを認めなければならなかった。この間違いは、政治家がnettoとbrutto(手取りと総収入)を間違えるのとは訳が違う。これは全く愉快なことではないし、死活問題である。しかし、西村氏を驚愕させたのは、東京電力の経営陣の無能力ではなく、政府や東京電力などが提供するデータを疑わざるを得なくなっている事実である。これは、これまで日本になかった事態である。


欧米のジャーナリストが情報漏えいや犯罪などの情報を好んで探しているのに対し、日本のジャーナリストはこれまで多くの場合公式声明に大きな信頼を置いている。ベルリンやニューヨークにおけるルポライターが、「戦士」や「扇動家」としての自負をもっているのに対し、日本のルポライターはどちらかといえば自らを「記録者」と捉えているようである。


このようなことから、日本の大手の新聞社やテレビ局が、レポーターの事務所を取材対象の機関に直接置き、その事に関して何の疑問も抱かないということは、決して驚くべきことではない。彼らは、警察署から検察庁、そして総理官邸にいたるまで、どこにでも事務所を構えている。彼らは玄関で、仲良く取材対象を待つ。ここにおける競争はタブーなのである。彼らは、政治家や官僚、または企業の社長などが取材の許可を与えるのを待っているのである。多くの情報を聞くことが出来るにも関わらず、その全てを記事にしないこともまた、ルールの一つである。なぜ、そのようになるのだろうか?


日本にも物事を究明するようなジャーナリズムは存在するものの、大手の新聞社やテレビ局に比べれば、それはアウトサイダーに過ぎない。例えば、今でも現役のジャーナリストである立花隆氏は、1974年に月刊誌「文藝春秋」の中で当時内閣総理大臣であった田中角栄の腐敗した陰謀を暴き、その失脚を導いた。他の週間誌も、たまには暴露記事を掲載したりもするもの、これは、地味であることが目立ち、控えめであるジャーナリズムにおける例外的な随伴現象であるといえる。


《日本の権力機構の一部としての自覚》

日本の4つの大手の新聞社や、公共放送のNHK、並びに多くの民放は、日本の権力機構の一部としての自覚をもっている。このような自覚が「島国の精神」と関連していることは、googleやfacebook、Twitterといった新たなコミュニケーションの競合相手が台頭するする時代においても、日本人がテレビや新聞などに最も大きな信頼を置いていることからもうかがい知れる。


権力機構とメディアは密接している。有名人が何も話したがらないような場合、記者たちは取材対象を力強くつけ回すものの、その姿はまるでクモザルの集団の様に大人しく、最終的に何とか報道できるような発言をしてもらえるまで待っているのである。このような取材方法は「ぶら下がり」と呼ばれている。しかし、福島での事故が起きて以降、この「ぶら下がり」には今までとは違う絶望的な意味が加わった。東京電力の経営陣どころか政府の担当者までもが事態を収拾できなくなったことから、日本の記者たちはなす術もなく空気にぶら下がっているのである。


毎日行われる東京電力の記者会見において、記者たちの声は苛立ったものになってきている。記者たちは、原発事故それ自体よりも、説得力のある記事を書けるだけの信憑性のあるデータが与えられないことに対して憤っている。


東京電力は最近になってようやく、損傷した原子炉における放射能の間違った測定値を発表した。西村氏はこの東京電力の間違いが、夕刊のない日曜日に起きたことに胸を撫で下ろした。さもなくば、後に訂正された間違った数値を記事にしてしまっていたはずだからである。


《メディアは常にそれぞれの社会を映し出す鏡である》


日本のジャーナリストが自国の原発政策に関する根本的な問いを立て始めることは、もちろん可能である。彼らは、「日本が果たしてどのように、また、そもそも原子力発電所において想定される最悪の事故に備えて対策をとっていたか」という議論を巻き起こすことができるだろう。ただ、誰に訴えかければいいのだろうか?ドイツでは最近、25万人もの人が原発に反対するデモに参加した。同じ時期に東京で行われたデモにおける参加者は1千人にも満たなかったという。メディアは常にそれぞれの社会を映し出す鏡でもあるのである。


西村氏を初めとする記者たちは、まだ信頼されている数少ない情報にしがみついている。西村氏は、新聞の第一面の右上部分を指差した。そこには、警察庁によって発表されている、地震と津波による死者・行方不明者の厳密な数が毎日表示されている。


今回の震災によって亡くなった人の数が、そこに表示されている数よりもはるかに多いと考えられることは、彼もまた理解している。しかし、日本のメディアでは遺体が見つかって初めて、その人物が死亡したと認識する。これもまた、日本のメディアにおける揺るぎない規範である。


彼らは多くの場合、耐え難い事実を和らげたり、直接的な対立を避けたりするような表現を用いて報道する。こうした姿勢は、日常生活でにおいては心地いいことであるかもしれない。ただ、日本においては言葉で生計を立てているような人までもが、このような考えをもっているようである。「我々ジャーナリストは社会的な責任を負っている。このような危機の中、我々はパニックを引き起こすようなことをしてはいけない。」と、西村氏は言う。


テレビ局の人間も同じような考えをもっている。3月11日に全世界に配信されたようなショッキングな津波の映像は、とっくの昔に放送されなくなっている。しかしながら、完全に娯楽番組へと切り替えるのもまた、時期尚早なようである。日本人は本来、娯楽番組を通じてストレスを解消することを全世界のどの国の人間よりも好んでいるのである。


芸人が、政治家やミュージシャンなどの有名人をネタにした芸を披露して多くの笑いを取る「爆笑ものまね」の様な番組は、今では遅い時間帯にしか放送されていない。日本人にとって「笑い」は過去のものになってしまったのだ。


それではテレビ局はどうなのだろうか?彼らは、楽観的な雰囲気をつくろうとしている。ほぼ全ての局が、何日も捜索した結果見つかった震災の生存者とその家族が抱き合う姿を繰り返し映し出している。こうした光景は、テレビ局のディレクターが手際よく高感度を掴めるような感動的な瞬間である。彼らは、被災者が涙を流すまでずっとカメラを回し続けるのである。


「我々の国のテレビ局は、福島の事実を歪曲してメロドラマにしている」と、坂本衛氏は批判する。このテレビ評論家は、額から長髪を掻き分け、ハンカチで汗をふき取る。この男と、朝日新聞社のスマートな編集長である西村氏の共通項は、あったとしても年齢ぐらいしかない。彼らは二人とも52歳なのである。


坂本氏は、日本のジャーナリズムにおけるアウトサイダーであるものの、他の記者に負けず劣らず取材をしている。彼は、原子力産業と学者、そしてメディアの間のたわいのない仲良しグループを批判している。彼は、大手のメディアが記事にしないようなことを雑誌や大衆紙、または自身のブログに書くことで生計を立てている。


「日本のジャーナリズムは福島原発事故によって挫折を味わうことになるに違いない。」と、彼は言う。これは文化的な問題なのかもしれない。なぜなら、日本人は小さいときから目立たないように育てられてきているからである。坂本氏は、我々が取材をした東京のレストランにおいて隣のテーブルの客がこちらに振り向くほど大きな声で、このような発言をしたのだ。


このような文化に反して、福島の事故は小さくなるどころか日に日に大きくなっている。日本のメディアは、この悪夢を忘れさせることはできないものの、少し希望がもてるような報道をしようとしている。テレビ朝日の夜の報道番組である「報道ステーション」でもこのような傾向が見られる。事故を起こした原子炉から制御できなくなったプルトニウムが漏れていることが明らかになっている中、キャスターは良いニュースから紹介し始めた。「具体的な救済処置」が検討されると、彼は伝えた。そうすると彼は、放射能に汚染された水を吸い取ることができるようなタンカーを福島へ派遣する可能性について、大学の教授にインタビューした。


キャスターは最後に感謝しながら微笑んだ。そして、これからは意図的にパニックを引き起こすような行動を避けることが重要になると言った。彼を初めとする日本人が、近いうちに「せめて少しは今より安心できる」といいのだが。ここ数日、既に多くの良い感触がある。

(以上)


難波先生に届いたメールを転記させていただきました。

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2 Comments

yokoblueplanet says..."難波先生からなので、転載OKですね?!"
こんばんは。
ドイツのシュピーゲルの批評は、転載OKですね。
転載します。残念ながら、「茹でガエル」そのままですね。
2011.04.13 17:51 | URL | #- [edit]
mome says...">to yokoblueplanetさま"
もちろんどうぞ。
いつもありがとうございます。

テレビはもうだめです。
当たり障りの無い、もしくは、嘘の情報を垂れ流すだけなら意味は無いので、ずっとバラエティだけやってればいいですよね。
2011.04.13 21:04 | URL | #195Lvy4Y [edit]

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